【閑章 テネシー・クーラー】第一話 遠き日

 

マスターは、店が入っている雑居ビルの前で、男の到着を待っていた。

「おまたせ」

マスターの横に、古い車が停まっている。窓が開けられて、マスターがよく知っている男が声を掛ける。

マスターは、何も言わないで助手席のドアを開けて乗り込む。

「出せ」

「マスターは、僕にすこしくらいは優しくしてもいいとおもうよ」

「煩い。俺は、寝る。富士川で起こせ。そこから、指示を出す」

「はい。はい。富士川?新東名じゃない?」

「あぁ」

「わかった・・・。もう、寝ているよ。本当に、マスターは変わった」

男は、眠り始めるマスターを見ながら、ギアを一速に入れて、クラッチを離す。
古い車だ。「Honda インテグラ 初代Type-R 1.8L DOHC VTEC」マスターが買い取った車だ。マスターは、免許を持っていない。しかし、友人が過労死したと古い知り合いから知らされた。古い知り合い経由で、遺産分けを貰った。それが、友人が大切に乗り続けていた車だ。買い取った時の状態を維持する為に、マスターはディーラーに定期的に点検を頼んでいる。友人が購入したディーラーにわざわざ持っていっている。

男が、小気味よく、シフトチェンジを繰り返す。
繁華街から、大通りに出て、首都高速に乗るまでは、アクセルを踏み込む必要はない。制限速度で走るだけなら、3速までで十分だ。VTEC域に入らないように、アクセルを調整しながら、靖国通りから外苑東通りを経由して、首都高に向かう。

首都高の合流で加速する。
男も、NAエンジンの吹きあがりの音が好きだ。車には、マスターの友人の趣味なのか、オーディオは搭載されていない。ナビも存在しない。エアコンは辛うじて付けているが、走る為に必要な物は備え付けているが、それ以外は必要がない。存在しない。昨今の情勢から、ETCと車載カメラだけは取り付けられている。車の希少性を考えて、防犯機材も追加で付けた。マスターは反対したが、男が説得をした形だ。

男は、首都高に乗ってからも制限速度以上は出さない。
マスターに止められているわけではない。ただ、タイヤから伝わってくる感触を楽しむ。無理にスピードを出さなくても、NAエンジンからの音を聞いているだけで満足な気持ちになれる。

足柄SAで車を停めて休憩をしたが、マスターは起きてこなかった。
男は、軽く食事をしてから、マスターの為に飲み物を購入した。そして、眠っているマスターが待っている車に戻った。

足柄SAを出て、富士川SAに向かう。

富士山が右手に見えてきた。
車が、富士川を渡って、富士川SAに吸い込まれる。

「マスター」

富士川SAの駐車場に入るタイミングで、男はマスターに声を掛ける。

「大丈夫だ。起きている」

マスターは、大きく旋回する車の振動で目を醒ました。男の呼びかけに目を開けて答えた。

男が運転する車は、スターバックスの近くの駐車スペースに停車した。
歌舞伎町を出たのが、マスターが店を閉める時間だ。日没時間を少しだけ過ぎている時間だった。富士川SAに着いた時には、夜更けと言われる時間になっている。ここから、マスターの目的地までは1時間程度だが、準備も必要になるために、前日に到着するように計画した。

「マスター。どうするの?」

「まずは、飯だ。そのあとは、富士川身延線を使って、県道396号に入る。新蒲原駅の高架を抜けて、バイパスに出る。下りに合流して、興津川を目指す。興津川のスパで一泊だ。予約はしていない。部屋が取れれば、部屋に、取れなければ、雑魚寝だ。朝食後に、買い物に出かける。イオンが清水にある。そのあと、ベイドリームに寄ってから、目的地に向かう。以上だ」

「ちょっちょっと待って、一気に言われても覚えられない。無理」

「覚えろ。いい。覚えなくても、お前は、車を言われた通りに走らせろ。それ以上は、聞くな」

「・・・。わかった。でも、マスター。食事の時間と休憩は頂戴」

「大丈夫だ。居眠り運転で、Type-Rを壊されたら、真一に文句を言われてしまう。本当は、お前に運転させるのも業腹だが・・・。そこは妥協しよう」

マスターは、それだけ言い放って、男を置いて、富士川SAの暗くなっているフードコートに向かう。
暗くなっているのは、レストラン部分の営業が終了しているためで、一部のテナントは営業を行っている。マスターは券売機で、カツカレーを注文する。急いでかけてきた男は、”浜っ子丼”の売り切れランプを見て悲しそうな顔をしてから、海鮮かき揚げ丼を注文する。

マスターは何も言わずに、端のテーブルに座る。

「ねぇマスター?準備で何を買うの?」

「材料だ」

「え?材料?」

「そうだ。”テネシー・クーラー”を作る。店の物ではない。アイツらの為に・・・」

丁度注文した物が出来上がったので呼び出しが入る。
マスターは立ち上がって、注文を受け取りに行く

マスターの後ろ姿を見ながら男は、テネシー・クーラーのカクテル言葉を思い出した。

「(あの日の約束)」

「(マスターの犯した犯罪は知っている。動機も知らされている。でも、俺が知っている動機は、マスターが語った動機ではない。警察が、司法が勝手に考えた、納得ができる”動機”だ、マスターの本当の動機を知る人物・・・。か。少しだけ、本当に、少しだけ嫉妬してしまいそうだ)」

男は、目の前でカツカレーを優雅に食べているマスターを見ながら、これから会う人物の情報を思い出す。
マスターに手錠をかけた人物で、マスターが”友”と呼び続けている数少ない男。マスターの出所時の面倒を見た、弁護士の女性。
マスターの現在の仕事を時々手助けするシステム関連の何でも屋。現在では、現場から身を引いて、企業からの依頼を受けて新人講習の講師を行ったり、弁護士からシステムに関する係争への助言をしたり、子供にパソコンやプログラムを教えている男。

そして、この”約束”に加わるはずだった4人の男。

プログラマーだった男。Type-Rの元の持ち主。システム構築中の激務が原因で過労死。
システムエンジニアだった男。仕事を切った協力会社の関係者に逆恨みされてホームに突き落とされて轢死。不思議なことに、遺体には損傷が見られなかった。
トラック配送業を行っていた男。配送を終えて帰ってくる途中で乗っていたトラックごと行方不明。

そして、俺たちに、マスターを紹介した。ブローカーの男。
事務所を神田小川町に持っていたが、神保町の裏道で姿を消した。本当に、一瞬だけ監視カメラが、録画されていない5秒の間に、姿を消していた。一緒に居たのは、社会的な身分が高い者が通う高校の制服を着た6人だが、ブローカーの男と一緒に姿を消している。既に2年以上が経過しているが、手がかりの一つも見つかっていない。ブローカーの男の足下に猫が居たが、猫さえも見つかっていない。

そして、マスターが店から持ってきた写真。
写真には、マスターと一緒には、恥ずかしそうにはにかんでいる少女が写っている。

男は、マスターの現在の背景を知っている。マスターが現在の背景になった事案も知っている。

しかし、本当の理由は知らない。マスターは、何も語らない。男も聞き出そうとは思っていない。

男の頭の中に資料が入っている。資料の中に書かれていない。
マスターの過去を、男は・・・。少しだけ、本当に、少しだけ垣間見る。このイベントに誘われた事で、男は満足している。

 

マスターのカツカレーが少なくなっているのを見て、男は慌てて、海鮮かき揚げ丼を食べ進める。

「急がなくていい」

「え?」

「俺の早食いは、癖だ。二十年近く過ごした場所では、食事にはあまり時間が掛けられなかった。それだけだ。お茶、飲むか?」

マスターの言葉を、男は少しだけびっくりした表情をした。

「うん」

お茶を求める声を出すだけで精一杯だった。

「どっちにする?」

「え?」

「ここには、緑茶と玄米茶がある。水もあるな」

「さすが、静岡・・・。それなら、緑茶で・・・」

男は、マスターの表情を見ていた。少しだけ口角があがるのを見逃さなかった。
マスターは、自分が食べた食器を持って立ち上がった。トレイの状態で、回収場所に持っていった。そのまま緑茶を入れて戻ってきた。二つのカップを持っている。

男の前に、湯気が立ち上がる緑茶が置かれた。
マスターは、男に一度だけ視線を移してから、緑茶を飲みながら、近くのTVから流れる映像を見始めた。

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