【見えない手】港町の喧騒

 

 僕の田舎は、東名高速が通って居ることと、銘産となる海産物があるくらいしか取り柄がない。田舎町だ。
 その中でも、港に近い地区には、昔からの風習が残されている。中学校卒業を間近に控えた、十分冬と言われる季節に行われる行事だ。

 春漁の豊漁と、新しく船乗りになる、男児が行う行事だ。

 僕は、漁師にはならない。高校に進学するし、できれば、大学にも行きたい。伝統行事と言われるが、はっきりって迷惑この上ない。しかし、悲しい村社会・・・漁師ではない僕は、参加を拒否する事はできるはずだったが、円味まるみが参加する。
 村社会が色濃く残る。田舎町では、有力家に逆らう事ができない。僕たちの世代だけの話しなら、それほど困る事はない。嫌なら出ていけばいい。だが、親や兄弟の事を考えると、村社会での生活を維持する必要が出てくる。そして、祖父が円味まるみの船に乗っている事を考えると、拒否する事はできない。

 そもそも、円味まるみの家は、船元の家系だ。円味まるみの跡取りが、僕と同級生で、彼は船乗りになる事を決めている。
 僕には、行事の”参加を断る”選択肢は用意されていない。

 この行事は、漁師になる男児が、”船の上から海に飛び込んで、船の下を潜って反対側から登る”といった儀式だ。船乗りの行事らしく、服を着込んだまま行われる。昔は、沖に出て、服を着たまま海に飛び込んで、接岸した船に上がる行事だったが、死者が出たり、行方不明者が出たり、危険性が指摘されてからは、現在のような形に変更された。

 この形式になってから、けが人は出ているらしいが、死者や、行方不明者は出ていない。もう、20年以上もこの形式で行事が行われている。そして、過疎化が進む町としては、貴重な観光資源だと考えているのか、行事から、祭事になり、最近では、TV局が取材に来たりしている。
 数年前には、タレントが挑戦もしていた、しかし、その時が不漁になってしまった事から、長老たちから批判が出て、タレントや他の地方の人間の挑戦は、行わないようになっていった。

 今年は、何事もなく終わる予定だった。
 僕たちは、”そう”思っていた。しかし、大人たちの雰囲気が去年とは明らかに違っていた。

 縁日の如く、屋台も多数出ている。地方テレビの取材も来ている。

『今年は、円味まるみの跡継ぎが出るのか』
『”また”あんな事が起こらなければいいのだが』
『もうあの頃とは違う。大丈夫だろう?』
『いや、跡継ぎは、似ているらしいぞ?』

 過去に何かが合ったことを示唆している。
 変な空気が港中に流れているが、儀式は例年通りに行われる。

 町といっているが、”平成の大合併”で、市に吸収されたので、正式には、”町”ではないが、住民は”町”と呼称している。
 儀式は、船元達の挨拶から始まる。その後、区長や市長の挨拶が予定されている。以前は、町長だけだったが、市に吸収された関係で、挨拶する人間が増えたのだ。それに、マスコミが来る事から、普段なら欠席するような先生方まで列席している。

 儀式は、暖かい地方だといえ、春はまだ先だ。気温もそこまで上がらない、事実周りの人たちは、薄手とはいえコートを羽織っている。僕たちは、船の上で待機する事になるのだが、伝統的な衣装を着ることになっている。船の上で作業をする時の格好だが、潜る事を考慮して、厚着する訳にはいかない。その上、救命道具などを着けるわけにもいかないのだ。

 寒い格好で、待たされて、その上、十分に冬と言われる海に飛び込むのだ。
 万が一の時の対応も、消防署の指導などで行ってはいるが、長老たちの”伝統行事”という言葉で、安全性が担保されない状況になっている。

 船元が、一人一人儀式を行う男児の名前を呼んでいく、呼ばれた男児は、船元に会釈してから、海に飛び込むのだ。

 僕は寒さとこれから飛び込む海の冷たさに、心と身体を冷やしていた。
 長い長い、区長と市長の挨拶も終わりに近づいてきた。儀式に参加するのは、僕を入れて、6名。順番も決められている。独特の階級があり、最上位に、船元。その後は、船大工・船乗り・船守りと続く事になる。儀式は、階級が下の者から執り行われる。船元にも、力関係があり、順番で揉める事はない。
 僕の家は、祖父が船乗りをしているが、家系的には、船大工に相当する。そのために、順番は最後の方になる。

 今年は、船乗りが居ないので、僕の前に、船守りの田中が行う事になっている。

 田中が、名前を呼ばれて、海に飛び込んだ。
 船から飛び込むのも勇気が必要だ。船は、油を抜いて、計器類も外して軽くしているので、喫水はそれほどではないが、それでも、船の下を潜るのにも勇気が必要になる。田中も体制を整えてから、潜った。水中で吐く息が泡となって現れる。それが、船に近づいて、反対に現れた。無事に移動できた事が解る。後は、今までの4人の様に、上がってくるだけで終わりだ。
 船に上がるには体力が必要になる。冷たい海は思った以上に体力を奪う。縄を使って、船上に上がってきた。観客席に居る人達に一礼して、暖かい格好になっている。

 僕の名前が呼ばれる。
 最初は、かっこよく飛び込もうと思っていたが、田中と同じ様に一度、海に飛び込んでから、船の下を潜ることにする。
 船上から、周りを見ると、同級生の女の子達が何人か見学に来ている。両親や祖父母の姿も見える。心配してくれているのだろう。

 冷たい海に飛び込む。心臓が跳ね上がるのが解る。覚悟を決めて、肺にめいいっぱい空気を取り入れる。

 船底を回るためには、潜らなければならない。そんな当たり前の事も、自分が実行する段階になると、覚悟を決めていても怖い。
 目を開けたくないが、開けていないと、船底にぶつかってしまうかも知れない。ソレだけならいいが、不測の事態に巻き込まれた時に、状況を確認するためにも、目を開けておく必要がある。

 冷たい海。
 港の中とはいえ、暗く深い海。

 手で船底を確認しながら、進む。肺の中の空気が消費される。僕は、大丈夫だ!
 そう言い聞かせながら、船底を深い方に向かって進む。

 船底の先端だ!
 後は、戻るだけだ!

”ビックン”
 何か、足に絡まった。怖い。怖い。怖い。

 急いで、水上に向かう。何か引っ張られるような感じがする。怖いが、確認してみるが、足には何も捕まっていない。だが、確実に、右足に何かが絡まっている。ゴミかも知れないが、掴まれている感じがする。

 陽の光が見える。
 水上はすぐそこだ。

 肺に入っている空気を吐き出して、一生懸命に顔を海から、恐怖から、逃げる。

 顔が水から出る。
 助かった。

 無事反対側にも出られたようだ。
 同級生の女の子達が、拍手と笑顔を向けてくれる。両親も祖父母も安堵の表情を浮かべているのが解る。
 女の子達の笑顔が、僕だけに注がれているわけじゃないのは解っているが、それでも、嬉しい。

 船上から縄が下がっている、登れば、終わりだ。

 船に上がるために、縄に掴まる。

 その瞬間。
 僕の腕を誰かに掴まれた。握っていた縄を離してしまう。

 気のせいだろう。再度縄に掴まるが、今度は違和感はなにもない。
 いつまでも海の中に居れば、体力が奪われるだけで、良い事はない。力を入れて、縄を登る。甲板まで、あと少しだ

”おまえだ!”

 耳元で誰かが怒鳴った。
 腕を掴まれた、右足も掴まれて、海に引きずられる。

 縄を握っていた手を離して、海に落ちてしまった。
 周りを見るが、人が居るわけが無い。こんな大きな声なのに、周りには聞こえていないのか?
 失笑が起こっているのがわかる。

 疲れて、幻聴でも聞いたのだろう。気を取り直して、縄を握る。右手には、不自然と思える跡が着いていた。
 縄を握った瞬間に、右足を握られて、海に引きずり込まれる。

 『やめろ!』
 心の中で叫んだ!それでも、右手と右足を掴む力は弱まらない。

 海に引きずり込まれる。
 この状況になって、失笑していた観衆が、ざわつき始める。僕は、必死に、手足を掴む力に、抗おうとしている。
 
足を掴んでいる”なにか”を、確認しようとした時、

”違う!こいつじゃない!魂が違う!”

 何かが、”そう”叫んだ。
 その瞬間、僕の手足を拘束していた力が無くなった。縄を握って、一気に船に上がる。

「大丈夫か?」
「あぁ」

 船上で田中が話しかけてくれる

「何か絡まったのか?」
「わからない。でも・・・ううん。なんでもない。大丈夫だ」
「そうか・・・」

 田中も何かを感じたのだろう、それ以上、聞いてこない。田中の目線は、僕の右足に付けられている、”握られた”様な痣に向けられている。僕も、痣には気がついているが、勘違いだと思うことにした。
 大人たちは、僕が船上に居る事で安心したのが、儀式を続けるようだ。僕が、今の話をしても、鼻で笑われるのだろう。どんなに、真剣に訴えても、”彼”が海に飛び込むのは止められないのだろう。

 嫌な予感とはこういう事を言うのだろう。
 大声を出して止めたい。”彼”に飛び込むのを辞めて欲しい。でも、誰も・・・・僕以外は、それを望んでいない。

 ”彼”は、僕の方を一瞥して、立ち上がっている。
 縁に足をかけている。”彼”は、船元の跡取り。当然ながら、最後を飾らなくてはならない。僕たちが、儀式用とはいえ安全に気を使われた服装をしているのに対して、”彼”は、昔ながらの・・・伝統的な衣装を着て、儀式に挑むようだ。それが、船元であり、船員の命を預かる者の、”証だ”と、いいたいのだろう。

 ”彼”が縁に立ち上がる。
 ”彼”自信、失敗するとは思っていない。
 群衆も、”彼”が飛び込んで、潜って、出てくる。この流れが違える事がないものだと思っている。

 そして、船に上がって、挨拶をする。

「俺は、円味まるみの者だ。今回の儀式も、誰一人掛ける事なく」

 ”彼”は、ここで言葉を切って、僕を見る。少しだけイラッとした。”彼”は、口上を続ける。聞いていると、ただ普通の事を、大声で言っているだけなのは解る。

 ”っつ!痛!”

 右足に痛みが走る。痣がうずくと言えばいいのか?

「どうした?」

 田中が、そう声をかけてくれる。
 僕と田中のやり取りが気に入らないのだろう、”彼”は、僕たちを睨んだ。

「なんでもない。大丈夫」

 ”彼”の方を見て、頭を下げる。変に、言い訳してもいい結果にならないのは、経験から解っている。”彼”は、自分の話を遮られるのを一番嫌う。尊大だとは思わないが、やはり、”彼”は、円味まるみの跡継ぎなのだろう。

「俺は」

 ”彼”が、僕たちをみて

「俺たちは、成人する。諸先輩方、祖先の英霊。円味まるみの跡継ぎとして、儀式を成功させる!」

 ”彼”は、そう高らかに宣言して、海に飛び込んだ。

 飛び込んだ後で彼がなかなか浮いてこない。通常なら飛び込んだ後で、一旦浮上して、それから船の下を潜るようにする。彼は、一気に船の下を潜ろうとしているのでは?

 その場に居合わせた全員がそう思った瞬間。思いもよらない出来事が発生した。
 僕達が乗っていた船が動き出した。儀式の為に、エンジンは切っていた。しかし、船は確実に動いている。スクリューが回っている音さえ聞こえる。

「キーを抜け!早く!」

 その声に反応するように、船室に向かう。
 しかし、エンジンを回す為のキーは着いていない。

「キーがない!でも」

「「「きゃぁぁぁぁ」」」

 最悪な結果を連想させる悲鳴が港中にこだまする。

「血が・・・血が・・・」

 僕たちは、エンジンの停止を諦めて、船尾に向かう。
 僕たちが、船室を出たら、エンジンが停止した。

 船尾で、僕たちの目の前には、信じられない光景が広がっていた。

「・・・血か?」

 田中が一言だけそうつぶやいた。

 海の中で怪我をした事がある人なら解ると思うが、切断くらいの怪我をしない限り、海の中で血が解るくらいに出る事は少ない。目に見える範囲全部が、”赤く染まる”状態になるとは考えられない。どれだけの血を流せば・・・違う。多くの血が流れ出ても、ここまで広がる事はない。

 この血が全部”彼”の者だと誰もが思った。

 一瞬の静寂。
 永遠だと思える、刹那の時間がすぎ、”彼”が浮上してきた。

 微笑みを浮かべている。眼を開いて、なにかを見つめているようにも見える。

 僕たちは、”彼”が助かったのだと理解した・・・・。

 しかし、”彼”の微笑みは、最悪の結果を覆す事はできなかった。

 ”彼”の微笑みを受けて、観客から吐息が聞こえてくる。
 それが、悲鳴に変わった。

 ”彼”の身体は、永遠に頭の重さに耐える必要が無くなってしまったようだ。

 微笑みのまま、うつぶせになるように、海に顔面を鎮める。
 切断された首が、はっきりと解る。切断面が、観客の方に向けられる。

 悲鳴にならない悲鳴が聞こえる。

 それから、右足・左足・胴体・左腕・右腕。何かを暗示するように、順番に浮かんでくる。

 理解が追いつかない。
 ”彼”はまだ海の中にいるのか?これが、彼だとはどうしても思えない。そもそも、切断された身体は海に浮かぶのか?

 ”彼”の頭部が、”ぐるり”と回って、こっちを見た。誰しもがそう思ったのだろう。これは、”夢”だと・・・。しかし、”彼”の顔は、なにかに怯える様子もなく、微笑んだままだった。
 エンジンがたしかに止まって、スクリューの音もしなくなった。喧騒や悲鳴も聞こえてこない。

 ”ピィーピィー”

 笛の様な高い音が鳴り響いた。

『はっはははは』

 笑い声が、狭い港に木霊する。誰かが笑っているわけじゃないのは解る。確かに笑い声が聞こえた。

 どのくらいの時間が流れたのだろう?
 大人たちが海に飛び込む。女たちの叫び声が”遠く”から聞こえる。

 大人たちは・・・長老衆は・・・”あの時と同じだ”と、言って崩れ落ちてしまった。

 それから、暫くは何が起きたのかはっきり覚えていない。救急車のサイレンが聞こえた気がしたが、それは遠い別世界で起こった出来事だったと思う。
 しかし、現実に彼はバラバラになってしまった。そして、不思議な事にレスキュー隊や海に精通している人達が潜って探したが、彼の右手だけは発見する事が出来なかった。

 それからの事は、僕は覚えていない。どうやって、家に帰ったのかさえも覚えていない。涙を流した記憶も無い。

 そして、数日が経って、彼の右手は結局見つからないまま、葬儀が執り行われた。その時まで気にもしていなかったが、僕が儀式をした時に聞こえた声と僕の足を掴んだ手の事を思い出して、恐る恐る足を見てみた。足には、しっかりと手の後が残っていた。そう右手で掴まれた後が・・・。

 葬儀は何事も無く終わろうっとしていた。古株の言ったセリフが忘れられない僕は、思い切って祖父に問いかけてみた。祖父は、円味の船に古くから乗っているので、何か事情を知っているのでは・・・そう思ったからである。
 僕の問いかけに、祖父は何も答えてくれなかった。しかし、一言、”葬儀が終わったら書斎に来い”それだけ言い残して、その場から立ち去ってしまった。僕は、葬儀が終わるのを待って、祖父が言った書斎に向かった。祖父は既に着ていて、椅子に座って僕を待っていた。

 僕がドアを開けて入る。

「ドアを閉めろ」
 普段とは違うキツイ口調で僕に命令をした。そして、

「足を見せて見ろ」
 僕は言われるがままに、祖父に掴まれた後が残る足を見せた。

 足のあざを見た祖父は、僕を抱き締めて・・・話し始めた。それは、僕にだけ聞こえるように耳元で囁いているようでもあった。

「よかった、お前が無事で、本当によかった。このあざを着けられた者は、全員あいつらに殺されているんだ、よかったお前が無事で・・・本当によかった」

「あいつらって?」
 僕は、好奇心と同じくらいの恐怖心から祖父に尋ねた。祖父は、僕を抱き締める腕を少し緩めながら話を続けた。

「昔、そう俺が儀式を行うよりも昔の話だが、昔は沖から泳いで来る事が習わしになっているのは知っているな」

 僕は、頷いた。

「その時に、悲劇が起こった、一人の青年が泳げないのに、儀式に参加させられたのだ、この儀式は、お前も知っていると思うが、基本的には船乗りの関係者だけに限られる。その泳げない者は、船乗りでもなんでもない家の息子だった。しかし、ある船本の跡取りが面白がって、その青年も一緒にやらせる事になったのだ、本来そんな事は断れば良いのだが、その青年の家は、船本から魚を仕入れていたために、断れなかったのだ」

「そして、当日、悲劇が起こってしまった。泳げない青年は海に飛び込んだが、それでなくても泳げないのに、衣服を着けたままでは、溺れるしかなかった。その青年は、必死になって泳ごうっとしたが、もがけばもがくほど溺れてしまう。そして、青年は、溺れてしまった。その時に、青年は必死に何かに捕まろうとして、船本の青年の右足に掴まったが、船本はその手を左足で蹴って、振りほどいてしまったのだった」

「そして、青年はそのまま海の底に沈んでしまった。昔は、今ほどしっかりしていなかったし、船本の力は絶対的な力があった、この件は、青年が自分からやるっと言い出して、溺れて死んでしまった悲しい事故として処理された」

 そこまで一気に話すと祖父は、腕の力を緩めて、僕に椅子に座るように言った。

「それで、その青年はどうなったの?」
 ちょっと間抜けな質問だったが、祖父に聞いてみた。祖父は、困った顔になり。

「死体は出てきたが、右手だけは見つからなかった」
「え?」
「そう、今回と同じで、右手だけは見つからなかったのだよ」

 それだけ言って、祖父は黙ってしまった。僕は、聞かなければならない事を思い出した。

「それって、円味の所の話なんだよね? その話って今回が2度目って事はないよね?」

 暫くの沈黙の後、僕が口を開きかけた瞬間に・・・。

「そうだ、円味の大将のお父さんの話だ、今回のような事故は、2度目じゃない、前に円味の分家筋にあたる末丸の所の小僧が成人を迎えるときに起こった。その時には、今回と同じように、船が勝手に動き出して、末丸の小僧をスクリューに巻き込んだが、一命を取り留めたその代償として、小僧は右手を失った。右足には、今でもはっきりとあざが残っている」

「あぁだから、あのおじさん儀式には顔出さないし、水辺にも絶対に行こうっとしないんだ」

「そう、だから、お前からあざの話をされたときに、俺は・・・。俺が、円味の船に乗っているからか?っと思ったんだ」

「それはないでしょ、最後に耳元で『違う。こいつじゃない。』って言っていたから・・・」

 祖父は、僕の話を聞いてからは一言も発することなく、立ち去ってしまった。

 それから、必死の捜査にもかかわらず、彼の右手は見つからなかった。
 彼の右手は、どこに行ってしまったのだろうか? そして、僕の足に依然として残るあざは何を意味するのだろうか・・・・。

 それから数年が経って、僕の右足のあざも綺麗とは言わないが、消えかけてきた。僕は、結局祖父の後をついで、船乗りになる道を選んだ。そして、初出港の日・・・。何気なく、見た右足に、消えかけていた記憶を呼び起こすかのように、あざが克明に現れた。しかし、そのあざは以前の物とは明らかに違っていた、僕にはそのあざに見覚えがあった、そう、誰に相談する事なく、誰に証明されるわけでもないが、僕にははっきりと解ってしまった。それは、彼の右手が残したあざなのだ。

 僕がそのあざを撫でようっとした瞬間、違和感を覚えた。あざに触れないのだ、実際には触れるはずだが、いくら手を向けても、あざに降れることが出来ないのだ・・・。そう、見えない手がそこにあるように・・・僕があざに触るのを拒否している。

 そして、今でも僕の右足には、彼の無くなった右手がしがみついている。

fin

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